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2009年8月 6日 (木)

アウシュビッツに行ったはなし

今回は、少々昔のことですが、2003年の11月にアウシュビッツに行ったときの重いはなしです。

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毎年、夏になると終戦当時のニュースが流れます。

日本の終戦記念日は8月15日です。64年前の今日、8月6日は広島原爆の日、8月9日は長崎原爆の日。どんな事情があろうとも、核兵器を使って無差別殺人を行ったという非道な事実は許すことができません。戦勝国、敗戦国問わず、罪の無い一般市民を襲った大量殺戮の犯罪が免責されるべきではありません。終戦時期は我々が決して忘れることに無い日々となり、記憶は毎年繰り返されます。

戦争を風化させないために訪れるべき場所の筆頭として、広島と長崎の原爆資料館があります。どちらも昔から何度か訪れていますが、その度に愚かな過ちを繰り返してはならないと思います。それと激しい沖縄戦の生々しさが残る糸満のひめゆりの塔と平和祈念資料館などでしょうか。被害者の方々の気持ちを考えると、襟を正したくなります。

海外に目を転じれば、毎年思い出すのがポーランドのアウシュビッツです。訪れたのが2003年の11月なので、もう5年以上前のことにてすみません。
その頃、妻はヨーロッパに演奏旅行に出かける機会が多くありました。随行者としてはいつも妻の母親がいたので、私は仕事があることもあって任せっきりでした。でも、一度だけポーランドに随行したことがあります。当時は結構忙しかったのですが、無理無理休暇を取って仕事の入ったPCを持ち込んでの旅行です。ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団とのコラボレーションで、首都ワルシャワと、南部の古都クラクフでの演奏会でした。

演奏会は大抵夜なので、昼間はリハーサルや打ち合わせなどが行われます。妻の身の回りの世話には義母がいますから、言葉が出来ない私がいても役に立つわけではありません。その時間を利用してアチコチ観光を楽しませてもらいました。ワルシャワ滞在時も一人で各地探訪しました。

ワルシャワから特急列車で3時間強で古都クラクフに到着します。クラクフからローカル列車で1時間20分程の距離に、かの有名なアウシュビッツ強制収容所があります。クラクフに到着した翌日、早起きしてひとり出かけることにしました。

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早朝のクラクフ駅です。
ポーランドでは結構大きな都市のはずですが、こじんまりとした佇まいでした。写真では、駅舎の時計にて6時43分であることがわかります。ホテルの朝食もキャンセルして、7時過ぎの列車に乗る予定です。演奏会の都合で午後3時頃には戻ってこなくてはいけませんので、出来るだけ早い時間に出発します。

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アウシュビッツ強制収容所のあるオシフィエンチムへ向かうポーランド国鉄のローカル列車です。

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通勤から逆方向のためか、車内はガラガラです。途中の乗り降りもあまりありません。
近郊列車ながら、ゆったりとしたクロスシートが並びます。

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線路は右側通行です。ローカル線ながら、全線複線です。
対向列車はたまにしかありません。こんなに運転本数の少ない路線は単線で十分だと思うのは、狭い国土に住む日本人の発想かもしれません。昔は長い貨物列車が通る重要路線だったのでしょう。

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森閑とした風景の中を1時間20分、オシフィエンチムに到着します。途中、戦時に建てられたまま打ち捨てられたような工場をたくさん見かけました。強制収容所の被収容者を出張させて作業したのでしょうか。線路脇は非常に寂れています。

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オシフィエンチム駅です。平凡な郊外の駅の佇まいです。
駅舎の2階にネットカフェがありましたが、PCは日本語が使えそうに無いので入っておりません。当時はヨーロッパでもネット環境が悪く、ホテルから毎晩FAXモデムでダイアルアップで接続を余儀なくされました。仕事が追いかけてきていたので、仕方ありません。

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これまた森閑とした住宅街や工場脇を20分ほどぶらぶら歩きをすると、アウシュビッツ強制収容所の入り口に到着します。道中、被収容者を運んだという線路が廃線時のまま残されています。
エントランスは随分と瀟洒な建物ですが、戦後に整備されたのでしょう。

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ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と記されている教科書で見たような気がする有名なゲートです。ここをくぐって設備内部に入ります。被収容者の方々は、どんな気持ちでここを通ったのでしょうか。
広大な強制収容所跡は現在国立博物館として保存され、「アウシュヴィッツ・ビルケナウドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」としてユネスコの世界遺産(負の世界遺産)に登録されています。

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収容所の施設から外部との境界には鉄条網があり、脱走防止のために当時は高圧電流が流されていました。最初に貼った写真のように、所々に「危険!止まれ!」と書かれたドクロマークの看板が立てられています。
絶望のあまり自ら鉄条網に触れて自殺する者もいたといいます。

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施設内はよく整備された公園のようになっていますが、何ともいえない緊張感が漂っています。平日の早朝に訪れる人は少ないようです。ちゃんと日本語の案内パンフレットが用意されていました。
当時のままに点在する多くの建物内部の展示を一つ一つ見学することが出来ます。

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悪名高い毒ガス缶の「チクロンB」です。
他にも生々しい展示がたくさんありますが、カメラを向ける気になれません。亡くなった方々の大量の靴、メガネ、そして髪の毛。体の脂を使って作った石鹸。保存のための夥しいナフタリンの香り・・・。

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建物内の廊下には、この収容所で亡くなった方々の写真がズラリと並んでいます。
所々花が手向けられています。顔写真の額が並ぶ様は靖国神社の英霊の写真が並ぶ光景を思い起こしますが、こちらの写真は収容所に入った時に撮られた写真が大半のため、多くの方が怯えた表情なのが特徴的です。つい足早に通り抜けてしまいます。でも、写真の額は複数の棟の壁に延々と続いています。

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このレンガ造りの棚は、被収容者のベッドです。寝具は敷き藁です。
この地方はとても寒いのです。この日は11月中旬でしたが、日本の真冬のような寒さです。極寒の季節に自分がここに寝なければならない状況を想像して戦慄します。

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「死の壁」です。
多くの被収容者がこの壁の前に立たされて銃殺刑に処されました。銃痕が深く残っています。11月とはいえ、寒いポーランドでは氷点下。壁の前で撃たれる自分を想像し、足元からガタガタ震えてきます。

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収容所敷地内の片隅には絞首刑台があります。
これは被収容者に使用されたのではありません。戦後になってからの1947年、このアウシュビッツ強制収容所の初代所長のルドルフ・フェルディナンド・ヘスが、ニュルンベルグ裁判の結果ポーランドに送られ、この絞首刑台で刑に処されました。
ヘスの手記の訳本を後日読みましたが、非常にまじめで従順な精神を持った人格者に思えます。ナチス親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの無理な指示に愚直に従い、任務を遂行していたのでしょう。終戦前に逃亡しましたが、1946年に見つかって逮捕後、ポーランドに引き渡されて、またたく間に民衆の狂気の吊るし首で殺されたような印象を持ちました。彼も、そして彼の家族も戦争の被害者と言っても良いかもしれません。

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最後に、ガス室です。ヘスの絞首台のすぐそばにあります。
被収容者は、当初はシャワーだと言って連れてこられたとの事です。すぐ隣に処理用の焼却炉があります。
ナチスはソ連の突入前に証拠隠滅のために重要設備は破壊していたので、このガス室は戦後に復元されたものだとの事です。しかし、当時の私ははそんなことは知りません。この空間で大量殺戮が行われたと思うと、胸と頭が締め付けられるような思いで長くは居られません。静かに手を合わせて外に出ました。動悸が激しく、震えが止まりません。

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午後3時までにクラクフに戻る必要があったために、より規模が大きい第2収容所であったビルケナウまでは行けませんでした。
またトボトボと廃線脇を歩いて駅に戻り、クラクフ中央駅行きの電車に乗り込みます。往路よりも古い電車です。

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途中でそれなりに乗客が乗ってきましたが、オシフィエンチム発車時はガラガラでした。よく暖房の効いた車内で落ち着きながら、ようやく体の震えが止まってきました。
古い電車は快速で飛ばし、クラクフに向かいます。揺れは少なく、眠気が襲います。クラクフ中央駅が終点なので寝過ごす心配はありません。

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首都ワルシャワも良い街ですが、クラクフはより落ち着いた美しい街です。ホテルの前の道をまっすぐ行くと広場に出ます。
あのアウシュビッツの光景からすると、非常にのどかでホッとします。

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広大な中央市場広場です。
寒い中、元気に演奏する大道芸人がいたり、お土産屋さんがたくさんあって、ゆったりとした良い雰囲気です。
アウシュビッツはワルシャワから日帰りで行くことも可能ですが、この美しいクラクフの街でワンクッションおいて癒されてから訪れてよかったと思います。

人類の負の遺産を見て何を感じるかは人それぞれです。自身の浅はかな価値観を押し付けることは厳に慎みたいと思いますが、国内外通じて体感せねばならない思いを与えてくれた筆頭がこのアウシュビッツでした。戦争のことが話題になると、日本国内のことはもちろんですが、この時の体験が頭を過ぎって胸が締め付けられるような感覚を思い出します。
もっと勉強してから再訪したいと思っています。

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コメント

広島の今日、YUJIさんの想い出の意見、真面目に拝見しました。

投稿: honest | 2009年8月 6日 (木) 21時26分

私は海外には出かけた事は無いのですが、広島と沖縄には行った事があり特にひめゆりの塔に行った時の事を思い出しました。あの場所に行った時の何とも言えない胸を締め付けられる思いは、一生忘れる事は出来ないでしょう。

投稿: 三日月 | 2009年8月 6日 (木) 23時33分

>honestさん、おはようございます。

広島の原爆の日に、更に重い話になりました。
でも、過去の過ちを繰り返さないために、未来に伝えていく必要があると痛感しています。


>三日月さん、おはようございます。

広島の原爆資料館と、沖縄のひめゆりの塔は、私も最初はお気楽な観光のついでに行ったのに、あまりの深さに驚いたことと、様々なことを考えるきっかけになった場所になっています。
どちらも坦々と事実を説明していますよね。

実は、諸外国の戦争資料館や軍事博物館では、自国や団体の都合の良いように歴史を捻じ曲げているところも複数体験しています。戦時の日本が極悪の軍団となってしまっているところもあります。

投稿: YUJI | 2009年8月 7日 (金) 07時15分

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